本章で述べる 「三段論法」とは, 「実践三段論法(=測定理論の中の三段論法)」 の意味である. 「数学・記号論理の中の 三段論法 」 や 「日常言語の中での三段論法 」 は 証明することではない. しかし, 「実践三段論法」 は定理であって, 証明されなければならない.

「三段論法」として,よく引き合いに出されるのが, 次の文言である:

$(\sharp_1):$ ソクラテスは人間であり, 且つ,人間は死ぬ. 故に,ソクラテスは死ぬ.

しかし,この例($\sharp_1$)は,世界記述の観点からみれば, 素直に受け入れることはできない. なぜならば,


  • 如何なる言語(世界記述法)で,文言($\sharp_1$)が記述されいるか?

が明示されていないからで,それならば,文言($\sharp_1$)は「科学的命題」ではなくて,「日常会話的命題」になってしまうからである. したがって, 本章では, 日常言語で表現された文言($\sharp_1$)を 量子言語の記述に翻訳することを考える.すなわち,

$(\sharp_2):$ 量子言語で(つまり,量子言語の言葉遣いで),
$(\bullet):$ ソクラテスは人間であり, 且つ,人間は死ぬ. 故に,ソクラテスは死ぬ.
を述べることが可能か? 否か?
を,議論する.
数学では、「三段論法」を当たり前のように使う。そうならば、次の疑問は当然だろう。

  • 何故、哲学者は、上の$(\sharp_1)$をアリストテレス以来議論し続けているのか?

とか

  • 当たり前のことを、 「大前提」、「小前提」、「結論」などと 仰々しく議論しているのか?

である。  「哲学者は馬鹿なのか?」 と思う者がいてもおかしくないだろう。


この理由は、$(\sharp_1)$は当たり前ではなくて、 結論的には,
$(\sharp_3):$ 三段論法$(\sharp_1)$は,古典系では成立するが,量子系では成立しない
からで、これをこの章では示す。


この章ほとんどの議論は以下の文献から抜粋した.
[1]:S. Ishikawa, "Mathematical Foundations of measurement theory,"Keio University Press Inc. 2006. ( download free)
[2]: S. Ishikawa, "Fuzzy Inferences by Algebraic Method," Fuzzy Sets and Systems, Vol. 87, No. 2, 1997, pp.181-200.doi: 10.1016/S0165-0114(96)00035-8


上の論文[2]で思い出したことだが、 昔は、「大きなブーム」があって面白かったと思う。 たとえば、
  • カタストロフィー、カオス、複雑系、ファジィー
等で、夢があったと思う。 映画「ジュラシック・パーク」の主人公の一人は、 カオス学者だった。 「相対性理論と量子力学の次は、複雑系」と断言する物理学者もいた。「ファジィー家電」などはまだある。 社会現象と言ってもいいほどのブームだったと思う。
結局は、「果てない夢」だったのかもしれないが、 「あの夢」は一体なんだったのだろうか? それにしても、

  • 次のブームは何なんだろう?

それとも、「夢を語る時代」はもう来ないのだろうか。著者は、実は、
  • もう、ブームは来ない
と密かに思っている。デカルト=カント哲学も一種のブームだとしたら、

  • これらのブームに共通していることは、

    「ニュートン主義(実在的科学観)という権威」に対する反発のガス抜きに過ぎず、

結局、「未熟な言語的科学観」でしかなかったと思うからである。




$\S$1.1で述べたように, 我々の目的は次図を主張することである:
  • 世界記述史の中での量子言語の位置
上図(特に, ⑦--⑨)から、量子言語は次の3つの特徴をもつと言える: $$ \left\{\begin{array}{ll} \mbox{ ⑦ :量子力学の標準解釈} \\ \mbox{ $\qquad$ (i.e.,コペンハーゲン解釈の真の姿) } \\ \\ \mbox{ ⑧ : 二元論的観念論 (デカルト=カント哲学)の終着点 } \\ \\ \mbox{ ⑨ : 未来の理論統計学 } \end{array}\right. $$