ケンブリッジ大学の物理学者ホーキング博士は, 「ホーキング博士,宇宙を語る」(世界で1000万部のベストセラー)の中で,

$(G_1):$ 19世紀と20世紀には,科学は哲学者,いや少数の専門家以外の誰にとっても,あまりに技術的,数学的になりすぎた. 哲学者は探求範囲を大幅に縮小し,今世紀のもっとも有名な哲学者のひとりであるヴィトゲンシュタインが,「哲学に残された唯一の任務は言語の分析である」と言うほどになった. アリストテレスからカントに至る哲学の偉大な伝統からの,これはなんという凋落ぶりだろう!

と, 「哲学と科学との乖離」 に苛立ちを隠さずに,率直に述 べている. もちろん、上の「ホーキング博士の意見」は「一般の科学者の意見」でもあると思う。

科学の議論の中で、「哲学」という言葉が、「マイナス・イメージ」しかないことを知らない程、著者は世間知らずではない。 したがって、本書では哲学に一切触れない書き方を採用してもよかった。

  • 有用性だけをひたすら強調すれば、容易に賛同を獲得できただろう.

事実、量子言語ほど有用な理論は他にはないのだから。

しかし、 ホーキング博士の上の言葉(G$_1$)を知って,「($E_3$):量子言語はデカルト=カント哲学の最終到達点」を強調したくなった.

それにしても、

  • ホーキング博士は、哲学をどう思っているのだろうか?

    「神学の婢」 から 「科学の婢」 に移行しただけぐらいに思っているのだろうか?


と 「ホーキング博士,宇宙を語る」 を読むと感じてしまうのだが。 と言うのは、

  • ホーキング博士が、感心するようなことを カントもウィトゲンシュタインもは発言していないわけで、
    この二人は同類
と思うのだが。




また, ケルヴィン卿(1824年--1907年)の有名な言葉:

  • 唯一のよい形而上学は数学である

は非常に説得力を持つ言葉で,(数学以外の)形而上学が非科学的であるような空気が蔓延している. 
$(G_2):$ 事実,統計学は,「自身が(数学以外の)形而上学である」ことをあまり強調せずに,あたかも,「自身が,数学の一部である」であるような自己アピールをしている.
しかし,
$(H_1):$ 量子言語は,「未来の理論統計学」を標榜する以上は,
  • 「科学の中心に量子言語という形而上学が居座っている」
とか
  • 「(相対性理論以外の)科学とは、現象を量子言語で記述することである」
とかは、そんなにズレた主張ではない。.

$\qquad \qquad $Fig. 1.1: 世界記述史の図式


量子言語は言語である。 したがって、量子言語(=量子力学の言語的コペンハーゲン解釈)は、物理学ではないので、他の量子力学の解釈とは全く異なる。 図19.1(右図)の実在的科学観の方向で、 将来的にある天才的物理学が量子力学の最終的な解釈を提案したとしても (著者は、非相対論的量子力学の枠組み内では、解決できないと信じているが)、 それが量子言語に影響を与えることはないだろう。 つまり、挑発も込めて、言うならば、
$(H_2):$ 量子言語は、誰もが納得できる唯一の(科学に関する)哲学で、しかも、永遠である
と信じる。


補足:

「量子言語が一番(統計学よりも)役に立つこと」を納得していただけば、 それで十分で、「量子言語が哲学かどうか」はどちらでもよい。 「永遠」 とは、嘘っぽい言葉であるが、「上の世界記述史の図式」はあと数十年で終わる学問であると信じている。「統一理論」も2050年には間に合うだろう。 したがって、「永遠」とは、「西暦2050年まで」という意味である。 量子言語は、一種の「(人間の)思考の形式」であるが、2050年以降は、「(コンピュータの)思考の形式」が「思考の形式」の大部分を占めるようになるだろう。 しかし、猫が「(人間の)思考の形式」を理解できないのと同じく、人間には 「(コンピュータの)思考の形式」が、何かはわからないだろう。そうなると、「言語(思考の形式)が決まって、科学の枠組みが決まる」という原則に忠実過ぎると、堅苦しいことになる。

結局、「西暦2050年まで」に、人類は、古代ギリシャの二つの夢(パルメニデスとヒポクラテス):
  • 「世界記述」と「不老不死」
を手に入れると思う。 Web版だと研究室と同じ気分になって、話が拡散してしまうが、遺伝子組み換え食品など普通なのだから「遺伝子組み換えによる超人間の出現」など 当然あり得ることで、しかも、超人間の言語を我々普通の人間が理解できないとなれば深刻となる。超頭脳(コンピュータ、超人間、宇宙人)が現実味を帯びてくれば、話は別で、 「世界記述」とか「科学とは何か?」などいう気分でいられるのもあと数十年なのかもしれない。